梅毒の故きを温ねて新しきを知る
はじめに
2015年第1~53週まで(2014年12月29日~2016年1月3日)に診断され、感染症法に基づく医師の届出にて梅毒として報告された症例数は2698例(2016年3月30日時点、暫定値)であった[1]。
一方、2016年第1~12週まで(2016年1月4日~3月27日)に診断され、梅毒として報告された症例数は796例(2016年3月30日時点、暫定値)で、昨年同時期(397例)の2.0倍であった。性別は男性563例、女性233例で、昨年同時期(男性289例、女性108例)のそれぞれ1.9倍、2.2倍であった[1]。
このように、近年、多くの先進国と同様に本邦においても梅毒は増加傾向で、公衆衛生上の問題となっている。今回のKansen Journalでは梅毒を取り上げる。
本稿の目的
Kansen Journalのウェブサイトには、「主たる読者は臨床感染症に関する知識経験のある医師」とあるが、筆者は実際の読者層は必ずしもそこにとどまらないものと想像する。本稿は梅毒の歴史を追ったエッセーを主体とするが(目の前の患者の具体的なマネジメントには役立ちにくい内容だと思われる)、幅広い層の読者に梅毒への興味を持っていただき、それが梅毒増加に対する注意喚起・対策の動機付けにつながれば、と考える。臨床的なところに関しては、教科書[2]や論文[3]などを参照していただきたい。
梅毒とは
梅毒の原因微生物はSpirochaeta pallidumで、1905年にFriz SchaudinnとErich Hoffmannにより発見された。その後、現在頻用されているTreponema pallidumに呼称が変わった。Treponemaは「回転する糸」、Pallidumは「青い」、という意味で、これはT.pallidumを暗視野にした顕微鏡でのぞくと、青く光って回転する糸のように見えることに由来する。 2016年11月時点でin vitroでの培養が成功してないため、病原性の機構の解明は困難である。一方、ウサギの睾丸内では培養可能であり、かつ効率も良いので、研究室ではウサギの睾丸を利用して継代培養を行っていることが多い。 感染経路の大半は性行為および母子感染だが、針刺しでの感染報告もある[4][5][6]。本邦においては、感染症法に基づく5類感染症に分類されており、全数報告疾患である。
梅毒の自然経過
図1に梅毒の簡単な自然経過を示す[7]。
第1期に硬性下疳、第2期に皮疹(主に手掌・足底、無痛性)、脱毛、粘膜疹、ぶどう膜炎、リンパ節炎、全身症状などを認め、晩期梅毒ではゴム腫、心血管梅毒、神経梅毒などを認める。感染拡大の原因の一つは、無症候期(無症状だが感染力あり)の存在である。
梅毒の歴史[8]
梅毒の起源は何だろうか。流行に関する起源として、コロンブス一行が1492年に新大陸(アメリカ大陸周辺)から旧大陸(アジア、ヨーロッパ、アフリカ大陸)へもたらした、という説もある(この仮説はそれなりに有力だが、筆者が調べた範囲では未解決であると考える)。梅毒の病原微生物としての起源は何だろうか。紀元前400年頃に、新大陸でイチゴ腫(Yaws)が梅毒に進化した可能性が指摘されている。イチゴ腫はTreponema pallidum pertenneが原因で梅毒と似た症状を呈す疾患である。実際に、現代の梅毒は、新大陸のイチゴ腫と遺伝子が近縁であることも報告されている[9]。
表1に梅毒の世界史を示す。インドへの感染伝播は、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見の影響が大きいとされる。日本ヘは、当時交流が盛んであった中国の「明」から、博多や堺の商人、琉球人が伝播させたと考えられている。現代とは異なり移動が大変困難な時代であったにもかかわらず、ヨーロッパへ持ち込まれ、わずか20年で世界中に広がったことが分かる。
また、表2に梅毒の日本史を示す。日本への梅毒の伝播は鉄砲やキリスト教より30年も早いことが分かる。江戸時代の町医者・平野重誠の『病家須知』に「黴毒」(ばいどく)と記載がある。『病家須知』が世に出た後、「黴毒」の皮疹が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたので「楊梅瘡」と呼ばれることもあったようで、「ばいどく」の発音のままに、「楊梅瘡」の「梅」の字と合体して、近代以降に表記が「梅毒」に変化した可能性も、一部の専門家の中では考えられている[8]。
さらに、表3に梅毒に感染した可能性が指摘されている歴史上の著名人を示す。
表1 梅毒の世界史
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表2 梅毒の日本史
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表3 梅毒に感染した可能性が指摘されている歴史上の著名人
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梅毒の治療の歴史[6]
現在、梅毒の治療にはペニシリンが使用されているが、ここに至るまでに長い歴史があった。表4[10][11]に梅毒の治療の歴史を示す。
表4 梅毒治療の歴史
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表4[10][11]に示したように、過去にはマラリア療法も施行された。これは、「末期梅毒で精神症状を認める患者がマラリアに感染すると症状の改善が認められた」「T.pallidumは熱に弱い」という2つの観察事項をもとに、1917年に考案された治療法である。オーストリアの精神病学者ヤウレッグは、梅毒患者を三日熱マラリアに人為的に感染させ、高熱で梅毒を治癒させ、その後キニーネを用いてマラリアを治療した。この功績から、1927年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。旧日本軍も植民地下の台湾で実験したという説があるが、真実は定かではない。
ペニシリンの発見まで治療は難渋したが、その過程で人権を無視し、梅毒の臨床症状や自然経過を観察するための悲惨な人体実験も行われてきた。一つがタスキーギ事件(1932-1972)[12][13]、もう一つがグアテマラ事件(1940年代)[14]である。いずれも内部告発や第三者の調査により明らかとなり、タスキーギ事件は1997年にクリントン大統領から、グアテマラ事件は2010年にオバマ大統領から関係被害者に謝罪がなされた。
現在、梅毒の治療はペニシリンを中心に行われている。「本稿の目的」の項でも断った通り、具体的な治療法に関しては割愛する。教科書[2]や論文[3]などを参照していただきたい。
日本の梅毒の疫学[1]と課題
最後に、近年における日本の梅毒の疫学を示す。冒頭にも少し述べたが、2015年第1~53週まで(2014年12月29日~2016年1月3日)に診断され、感染症法に基づく医師の届出にて梅毒として報告された症例数は2698例(2016年3月30日時点、暫定値)であった。報告都道府県別では、症例数の多い順に、東京都1057例、大阪府324例、神奈川県165例、愛知県122例、埼玉県103例であった。性別は男性1934例、女性764例であった。感染経路別では、男性は異性間性的接触が840例、同性間性的接触が585例であった。また、女性の異性間性的接触は555例であった。男性は20~54歳の各年齢群より報告されており(計1640例:男性報告全体の85%)、最も割合の高い年齢群は40~44歳(313例:男性報告全体の16%)であった。女性は15~34歳の年齢群が女性報告全体に占める割合が7割(計538例)であり、20~24歳(240例:女性報告全体の31%)が最も割合の高い年齢群であった。先天梅毒は13例が報告された。
2010年以降、梅毒の報告数は増加傾向に転じており、2016年3月までの報告は、昨年と同様の傾向で増加が継続している。全国的に増加が見られており、東京都と大阪府、そしてその周辺の地域からの報告が特に多い。2015年に引き続き、男女の異性間性的接触による報告数増加の傾向が続いており、母子伝播による先天梅毒の増加も懸念される。また、同性間性的接触による報告数も増加している。
なお、2016年第1~48週まで(2016年1月4日~2016年12月4日)に診断され、感染症法に基づく医師の届出にてよる梅毒として報告された症例数は4,168例(暫定値)である。
梅毒の対策には、臨床部門と公衆衛生部門の連携が必要である。正確なリスク層を把握するために、まず全体像を把握しなければならない。そのために、臨床部門は梅毒を疑い、検査診断(本稿では割愛)を行うことが必要である。梅毒と診断した場合には、感染症法に基づく届出を行う。梅毒を診断することは、HIV、クラミジア、淋菌といった他の性感染症の診断の糸口にもなりうる。
一方、公衆衛生部門(臨床部門も)は、リスクが高い集団に対して啓発活動を行うことが重要である。具体的には、不特定多数の人との性的接触は梅毒罹患のリスク因子であり、その際にコンドームを適切に使用しないことがリスクを高めること、オーラルセックスやアナルセックスでも梅毒に感染することなどが啓発のポイントである。
おわりに
近年、多くの先進国と同様に本邦においても梅毒は増加傾向で、公衆衛生上の問題となっている。本稿を通じ、幅広い層の読者に梅毒への興味を持っていただき、それが梅毒増加に対する注意喚起・対策の動機付けにつながれば、と筆者は考える。
【References】
1)国立感染症研究所:注目すべき感染症「梅毒」.IDWR.2016年第12号. http://www.nih.go.jp/niid/ja/id/741-disease-based/ha/syphilis/idsc/idwr-topic/6389-idwrc-201612.html
2)青木 眞:レジデントのための感染症診療マニュアル,第3版,医学書院,2015.
3)Tanizaki R,Nishijima T,Aoki T,et al:High-dose oral amoxicillin plus probenecid is highly effective for syphilis in patients with HIV infection.Clin Infect Dis.2015 Jul 15;61(2):177-83.
4)Guo YL,Shiao J,Chuang YC,et al:Needlestick and sharps injuries among health-care workers in Taiwan.Epidemiol Infect.1999 Apr;122(2):259-65.
5)Franco A, Aprea L, Dell’Isola C,et al:Clinical case of seroconversion for syphilis following a needlestick injury: why not take a prophylaxis?.Infez Med. 2007 Sep;15(3):187-90.
6)Canadian Center for Occupational Health and Safety.What are the hazards of needlestick and sharps injuries? https://www.ccohs.ca/oshanswers/diseases/needlestick_injuries.html
7)Golden MR,Marra CM,Holmes KK:Update on syphilis:resurgence of an old problem.JAMA.2003 Sep 17;290(11):1510-4.
8) 加藤茂孝:「梅毒」―コロンブスの土産、ペニシリンの恩恵.モダンメディア.2016;62(5): 173-83.
9)Harper KN,Ocampo PS,Steiner BM,et al:On the origin of the treponematoses:a phylogenetic approach.PLoS Negl Trop Dis.2008 Jan 15;2(1):e148.
10)Raju TN:The Nobel chronicles.1927:Julius Wagner-Jauregg(1857-1940).Lancet.1998 Nov 21;352(9141):1714.
11)Mahoney JF,Arnold RC,Harris A:Penicillin Treatment of Early Syphilis-A Preliminary Report.Am J Public Health Nations Health.1943 Dec;33(12):1387-91.
12)Curran WJ:The tuskegee syphilis study.N Engl J Med.1973 Oct 4;289(14):730-1.
13)Cobb WM:The Tuskegee syphilis study.J Natl Med Assoc.1973 Jul;65(4):345-8. 12)Tanne JH:President Obama apologises to Guatemala over 1940s syphilis study.BMJ.2010 Oct 4;341:c5494.